認知症介護小説『その人の世界』Vol.34 未来からの手紙と過去からの手紙

あのカーディガン、どこにしまったかしら。

もう長いこと着ている、茶色のカーディガン。左のポケットの上にお花の刺繍があって、ころんとした大きなボタンがひとつついているの。

「あれぇ……」
タンスの引き出しを開け、奥まで手を入れてさぐってみる。
「ない……」
どこにいっちゃったんだろう。すごくお気に入りだったから、捨てるはずもないんだけれど。
「うーん……」
上から順に開けてみて、これが最後の引き出し。一番下だから見えづらいわ。
「よいしょっと」
膝をついて、一番奥まで手を伸ばす。毛糸らしいものを引っ張りだしては広げるけれど、セーターだったりチョッキだったりしてどれも違う。
「これも違う……」
うーん、と言ってめいっぱい腕を伸ばす。
「あれ」
指先に、何かがあたった。

タンスにしまうもの、というイメージからは遠い手触り。ひんやりとして硬い。
「なんだろう」
ちょいちょい、と指を動かしてたぐり寄せる。くるくると踊りながら手元にやってきたのは、お菓子の缶だった。クッキーかチョコレートでも入っているような、かわいい女の子が描かれた四角い缶。

ずっと閉まっていたから面倒くさいなあと言わんばかりに、久しぶりに引かれた蓋は微かにきしんだ。力を込めるほど缶の上で指先はすべり、蓋はびくともしなくなった。
「開かないわ……」
開かないと思うと余計に中が気になる。横に振ってみると、さくさくと音がした。何の音だろう。
「うーん」
両手に持ったまま、私は缶の女の子を眺めていた。

「失礼します、お茶ですよぉ……あれっ、どうしたんですかぁ?」
部屋の戸が開いて、顔を出したのは女性だった。髪をきゅっと束ねた、爽やかな女性だった。
「この缶が開かないのよ」
見上げた私は女性に缶を手渡した。

女性が蓋に手をかけると、ぱかん、と音を立てて缶は開いた。あまりにも簡単で、ふたりで笑った。
「良かったですね」
女性は微笑んで缶を私に返してから、その中身に視線をとめた。
「あら……」
「あら?」
見えたのは、紙の束だった。

「何かしら。ちょっと見て」
缶を持った私が女性を見ると、相手は「はい」と言って一番上の紙を取り出した。ふたつに折られた紙を広げると、女性は私に向けて中を見せた。
「これは……」

『はなちゃん、お誕生日おめでとう。
愛しています、ずっと。
一夫』

ひゃあ、と女性が飛び跳ねた。
「ラブレターじゃないですか! 一夫さんからの!」
女性は私の肩を何度もたたき、瞳を輝かせた。
「かずおさんから……」

『はなちゃん、昨日はごめんなさい。
僕もちょっと言いすぎました。
一夫』

『はなちゃん、いつもありがとう。
また今年も新宿御苑の八重桜を見に行きましょう。
一夫』

一枚取り出すごとに、女性は手紙を読み上げた。頼んだわけではなかったけれど、私はそれで良かった。
「素敵ですねぇ! 亡くなったご主人からの手紙、大切にとってあるんですね!」
女性は頬を紅潮させながら、子どものようにはしゃいで見せた。その姿を眺めながら、私は首をかしげた。
「ご主人て、誰の?」
私の言葉に、女性は「えっ」と言ったまま棒立ちになった。

「私、まだ結婚もしていないし、かずおさんて人のこと知らないわ。これは誰のご主人の手紙なの?」
考えるほどに不思議だった。こんな大切な誰かの手紙が、どうして私のタンスの引き出しに入っていたんだろう。私はここに住み込みで働いているただの家政婦だし、誰かの大切なものだったらどんなでもないことだわ。

「一夫さんて、知らない方なんですか」
ぼそりと女性が言った。
「知らないわ。あなたは知っているの?」
「はい……」
女性はなぜか切なそうにまつ毛を伏せてから、部屋の小さなテーブルセットの椅子に腰を下ろした。私もテーブルを挟んで向かいの椅子に静かに座った。女性はお菓子の缶をテーブルに置くと、読み終えた手紙を開いた蓋に乗せた。それからまだ読んでいない手紙を一枚取り出して開き、私を見た。
「花子さん、これ全部、『はなちゃん』て書いてありますね」
「そうね。偶然かしら」
「偶然でしょうか」
女性は手紙の文字をそっと指でなぞった。

『はなちゃん、お誕生日おめでとう。
僕は、はなちゃんを愛しています。
いつも、いつまでも。
一夫』

穏やかな、透き通る声で女性は読み上げた。読み終えると、女性は私と瞳を合わせた。

『はなちゃん、君には呆れたよ。
どうしてそんなに頑固なんだろうね。
今回ばかりは僕は謝らないよ。
一夫』

『はなちゃん、ごめんなさい。
そんな理由があったとは思いもしなかったよ。
でも、話してくれてありがとう。
素直なはなちゃんが僕は大好きだよ。
一夫』

一枚読むごとに、女性は必ず私を見つめた。会ったこともない人の手紙なのに、聴いているうちにまるで自分に宛てられているように思えてくるから不思議だった。手紙を書いている『かずおさん』の愛情を感じると、自分と同じ名前の『はなちゃん』を羨ましくさえ思った。私たちは視線を交わすたびに微笑み合った。

『はなちゃん、君といられる時間もあと少しです。
でも僕は、こうして床に臥せていても、いつだって君を抱きしめたいと思っているよ。
一夫』

『はなちゃん、もう面会に来なくていいよ。
僕も自分のこんな姿は見られたくないし、次は笑えるか自信がないからね。
一夫』

『はなちゃん、今日も会いに来てくれてありがとう。
君の顔を見られるだけで僕は幸せだよ。
君は僕の生きる力だ。
一夫』

『はなちゃん、愛しているよ。
一夫』

その手紙を最後に、女性は読むのをやめた。うつむいた女性は微かに肩をふるわせ、鼻をすすった。
「花子さん……」
「はい……」
「『はなちゃん』は、きっと、花子さんだと思います」
女性の声が潤んでいた。
「でも、私……」
「きっと……花子さんは、これから『一夫さん』に出逢うんです。これは、未来からの手紙です」
「未来からの?」
「そうです。だから……」
女性はティッシュペーパーの箱から一枚抜き取ると、鼻をぶーん、とかんだ。

「だから?」
「だから、大切に、持っていてあげてください。この手紙を」
「この手紙を……」
私は女性が最後に手にした手紙を受け取ると、その弱々しい文字を見つめた。

「そうだった……」
ふと呟くと、私は天井を見上げた。
「私がここにくるずっと前に、私のことをとても大事にしてくれた人がいたの」
「そうなんですか」
ずず、と鼻をすすってから、真っ赤な目で女性は私を見た。

「そうなの。学校に行っている時から仲良しで、いつも親切にしてくれたの。私は要領が悪かったし、得意なこともなかったから、なんだか自分に自信がなくて一人でいることが多かったのよ。そうしたらその人が、文通しませんかって言ってくれたの。僕も話すのが得意じゃないから、手紙でお話しませんかって。文通も続けていたけれど、だんだんと一緒にいることが増えて、とっても仲良しになったの」
「そうなんですか」
「そう。それで卒業して会社にお勤めするようになって、あまり会えなくはなったけれど文通は続けていたのよ。そしたらある時、会って話がしたいって言われたの」
「会って話がしたいって?」
「そう。それでハチ公の前で待ち合わせして、お話したの。すごくかしこまった顔でね、何を話すのかと思ったら、結婚してくださいって」
「わあ」
女性の表情に光がさした。

「私、お願いしますって言ったの。きっと、どこかで分かっていたのよ。そう言われるって。私は一夫さんと一緒になるんだろうなって」
「えっ!」
「え?」
「今、何て……」
「私、一夫さんと結婚するんだろうなって、本当はずっと分かっていたような気がしたのよ。だからちっとも驚かなかったし、迷わなかった。それで私、結婚したの」
「結婚したんですか」
「そう。一夫さんと」
私は手紙を開いた両手を膝に置いた。

「花子さんは結婚したんですね」
「そう」
「誰と……」
「えっ、だから……」

私を誰よりも愛してくれた人。私が心から愛した人。私の大切な、だんなさま。
「一夫さんと」
「じゃあ、この手紙は……」
「一夫さんからの手紙」

当たり前のように私が答えると、女性は両手で顔を覆い、大げさなほどの泣き声を上げた。

※この物語は、著者の介護体験をもとにグループホームを舞台に描いたフィクションです。

あとがき

認知症状態になると、記憶のスライドは時に短時間の間にも失くなったり見つかったりします。その一瞬一瞬をキャッチしながら、「その人の世界」をともに味わうことを私は大切にしています。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の理解のため、物語の力を私は知っています。

前回記事:認知症介護小説『その人の世界』Vol.33 女を女として

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阿部 敦子

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。

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