最期から3時間前の奇跡

ご高齢者や 認知症が進んだかたにも楽しんでいただける音楽会、「音楽の花束」を主催しておりますGOTOです。

先月GOTOは、100歳の祖母を彼岸に見送りました。普段なかなか会いに行けなかったのですが、偶然にも祖母の最期の日に入居施設を訪れたのです。そして、音楽によって驚きの体験をしました。

今回はGOTOと祖母の奇跡の1日を書いてみます。また、記事最後にその時の動画を掲載しているので、よろしければご覧くださいませ。

長野から東京の有料老人ホームへ移住した祖母

祖母は長野県の伊那の人です。しっかりした性格で、連れ合いを100歳で看取ってもなお、長野県の自宅で暮らすことを強く望みました。しかし、転倒による大腿骨骨折を繰り返したため、何度目かの入院の際、母と叔母は自分たちが住んでいる東京への移住をすすめました。意に沿わない移住に怒る祖母をなだめることは、非常にたいへんでした。それでも移住に伴う祖母の気持ちに寄り添っていただける東京近郊の有料老人ホームに出会い、とても親切にしていただき、お世話になりました。

しかし、毎週のように見舞いに行っていた母は、「こんなところにいたくない」「お前(娘)が長野に来て面倒をみてくれれば」と叱られて、随分辛い思いをしたようです。「いつでも長野に行けるように」と、荷造りもしていたようです。

老いてくると親子の関係があぶりだされてくるようです。祖母は母を厳しく育てたそうで、80歳になった娘にも、顔を見るたびに叱ったり、諭したりしていました。会話のやり取りの厳しさと通じなさは、もともとの親子の確執から来るものか、認知症のそれであるのか判別できないところが、また辛いところです。

それでも「長野から遠く離れたお母さんがかわいそう」と会いに行き続ける母を、GOTOは尊敬の思いで、後ろから応援することしかできませんでした。ところが、通い続けていくと次第に祖母の様子が少しずつ変化し、怒る合間に自分の育った伊那の村のことや、子育てをしていた時の気持ち、母や叔母への想いなど昔語りをしてくれるようになったそうです。

あるとき、「信濃日報(長野の新聞)が読みたい」と言うので、関東での販売先を調べて母が持っていきました。聞けば、その新聞を読むのが長年の日課だったそうで、新聞を受け取った祖母は、とても喜びました。「毎日読みたい」と言うので毎日配達されるようにしたところ、次第に「こんなところにいたくない」と怒ることが少なくなったそうです。

祖母に訪れつつある「最期の日」

頑固な祖母の移住への不安は、それまでの習慣をひとつでも取り戻す等の環境因子を整えること、職員さんとの交流ができてくると同時に定期的な母の訪問など安心できる周囲の関係性を構築することで、時間はかかりましたがほぼ改善できたと言えるでしょう。祖母は入所後半年ほどすると、フロアで他の入所者さんにも注意したり指図する遠慮のない様子が見られるようになったそうです。周囲には迷惑なことですが、本人が自由にふるまえるようになった、ということです。

そうこうしながら2年半ほど経過し、100歳を半年超えた夏「黄疸が出た」との連絡がありました。「いよいよその日が…」と、日ごろなかなか会えない孫たちが施設を訪れましたが、GOTOは仕事が立て込んで行くタイミングがつかめず、ようやく会えたのは連絡があってから10日ほど経っていました。

祖母に音楽を届けたい

「見舞いに行くなら祖母の好きな飴を持っていって」など、親戚からの連絡もありましたが、GOTOには「音楽を届けたい」という想いがありました。祖母の家にはオルガンがあり、GOTOもいつも弾いていました。音楽をやっていることを祖母はとても喜んでくれ、コンサートのポスターなどを大切にしてくれていました。なにより母が音楽を好きなのも、ルーツはおそらく祖母にあると感じていました。最後の贈り物は音楽、そう決めていました。

施設長さまにご了承をいただき、キーボードを持って会いに行きました。祖母は顔も目の中も黄色くなっていました。身体の痒みには薬を塗っていますが、頭皮には塗っていないため痒みを感じるようでした。また、背骨がベッドにこすれているようで「痛い」とかすかにつぶやいていました。GOTOを見ても顔をしかめ、「だれだい」と小さく言うだけでした。「耳もほとんど聴こえていない」と母が言いました。

試しにキーボードを出して見せると、ハッと目を見張り、鍵盤を弾くような動作をしました。そして、GOTOを見て「京子だね」とにっこり。これはと思い、「聴こえないかもしれないけれど歌ってみようか?」と言うと、母も、「やってみて」とのことで、ベッドの足元に楽器を置きながら、さてどのような曲が心に届くか、と考えました。実はこれまで祖母と歌った思い出はほとんどありません。どんな歌が好きかも特別に聞いたことはありません。しかし、突如GOTOの頭の中にとある音楽が流れました。それは、幼いころ母から聴いた歌です。祖母もきっと好きだっただろうと「故郷の廃家」を歌うと、驚くことに祖母はすぐに大きく手を動かし、拍子をとり始めました。

「聴こえてるわね!」「口が動いている、歌っているのよ!」母がびっくりしていました。声は聞こえませんが、明らかに一緒に歌っているように口が動いていました。その合間にかすかな小さな声で「痛い…」とつぶやいています。

「また明日会おうね」

続けて「花」を歌うと、やはり手拍子とともに歌っています。母も一緒に歌っていました。歌い終わると祖母は拍手のような手の動きと、GOTOに向けて投げキッスをしてくれました。表情もぐっと穏やかになり、あの険しい表情をしていた祖母が、こんなに柔らかい顔になるのかと驚きました。そのあと数曲、1曲はあまりお気に召さなかったようで手拍子が出ませんでしたので、曲目を替えるとやはり拍子をとり、口を動かします。思いが伝わるものとそうでない曲があるな、と感じました。

歌い終えて顔を覗き込むと、しっかりこちらを見ながら大きな声で「背中が痛い」と言いました。これには母が「これまで数日間声が出なくて、何を言っているか聞こえなかったのに!」とびっくり仰天でした。発音が明瞭になり、発語が促されるのは日ごろから感じていましたが、ここまでの変化もすごいと思いました。そしてタオルで背中と頭のポジショニングをしたところ、背骨が楽になったようで「痛い」と言わなくなりました。

表情も穏やかになったので、母も「これだけ元気で、声が出たのだから安心した」と祖母に向かって「また明日会おうね」と声をかけて帰りました。そのわずか3時間後、祖母は亡くなりました。

さいごに

改めて母に会うと、「わたしは今、悲しくないの」と言いました。そもそも強い性格の祖母に対し、母は我慢をするばかりで、GOTOに電話で愚痴を言うことがよくありました。それでも戦中戦後のたいへんな中育ててくれた祖母を想い、最期を看取る責任を担って一生懸命でした。ほんのひとときでも音楽でともに時間を過ごせたこと、穏やかな顔に向かって「また明日会おうね」と言えお別れができたことは、母の心の大きな救いと安らぎになったそうです。

「よいお別れができた」と言う母の言葉は、GOTOの心の宝になりました。長い、長い80年にもわたる母と祖母の親子の歴史が、最期の一日、音楽で少しでも心休まるものになったなら、本当に嬉しいことです。

音楽にできることはまだまだある。GOTOの模索は続きます。

次回もどうぞお付き合いください。

前回記事:高齢者の自立支援に欠かせないものって?~私が大切にしている○○の話~

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後藤 京子(GOTO)
「音楽の花束」代表。星美学園短期大学講師。東京音楽大学卒、同大学第2副科オルガン専攻修了、邦楽演奏コース長唄三味線専攻修了。1986年日本ピアノコンクール全国大会第3位、受賞記念演奏会出演、1987年読売新人演奏会出演。NHK邦楽技能者育成会に学ぶ。短大西洋音楽史講師、小学校音楽科教諭を経て2004年より「音楽の花束」のプロデュース活動を始める。2015年きらめき認知症シスター(きらめき認知症トレーナー協会認定)取得。カトリック東京カテドラル関口教会オルガニスト。デイサービス「空の花 高井戸」取締役副社長。>>公式サイトへのリンクはこちら「音楽の花束」
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