俺には確か娘がいる。
大事に育てたつもりはあるが、あいつはそんなこと感じちゃいまい。それが証拠に、今はどこで何をしているか分からない。心配したところでどうせあいつは戻らないだろうし、俺の顔なんか見たくもないと言うかもしれない。
言い訳するつもりもない。俺は代々受け継がれてきた酒屋の歴史を守らなければならなかったし、商売の厳しさは言葉より背中で教えてきた。あいつが生意気なことを言えば時に殴ることもあった。殴られて分からないことは、言って聞かせたところで分からない。なぜ殴られたのか自分で考えろ、そこから俺の苦労と愛情を読み取れ。それが俺の育て方だった。
あいつが高校を出たところあたりまでは覚えている。あとは忘れた。あの頃の俺は、家族よりもお客さんが大事だった。お得意さんはもちろん、地域のお客さんたちに喜ばれることが何よりの生きがいだった。迅速対応、対面販売。商売の神髄は心づかいにある。お客さんからの信頼は、俺の命そのものだ。
「ちょっとごめんね」
女の声がして、寝ている俺のズボンを誰かが下げた。途端に脚がスースーして寒い。
「やめろ!」
俺は相手を蹴り上げてやった。相手はそれをかわしたのか、当たった感触がなかった。
「ごめんね」
声の女は俺のパンツまで脱がせた。冗談じゃねえ。しかし起き上がることができない。これはどうしたことか。
「誰だ! バカ野郎!」
こうなったらやみくもでも何でも抵抗するしかない。俺はとにかく相手が近寄れないようにゲンコツを振り回した。
「痛いよ!」
何発かは命中したらしい。腕を下ろした俺は、飛び出さんばかりの目で女を睨みつけてやった。視界に入ったのは、見たことのあるようなないような女だった。
「お父さん、ちょっと我慢してよ」
「何ぃ!?」
俺の娘はこんなやつじゃない。それにあいつは出て行った。
「誰だおまえは!」
「誰って、娘だよぅ」
冗談じゃねえ。
「あっち行け! 俺には娘なんかいねえ!」
少し沈黙があり、女の気配が消えた。まったく、なんてこった。うちの母ちゃんだって俺のパンツを勝手に下げたりしない。
しかしこの身体はどうしてこんなに動かない? そういや、俺のパンツは下がったままだった。
「おーい」
誰を呼んだらいいのか分からない。それでも誰かは呼ばなければならない。
「はあい」
返事とともに、女の顔が見えた。さっきとは別の女か? そもそもさっきの女の顔もそれほどよく見ていなかった。
「寒いですよね」
女は俺の腕にそっと手を触れた。
「パンツを履く前に、ちょっと温かいのが当たりますよ」
女の言った通り、俺の股は何か温かいもので包まれた。よく分からないけれど気持ち良かった。
女にパンツを履かせてもらうと、何だか気分がさっぱりした。
「ありがとう」
俺が言うと、女は「いいえ」と俺の手を握った。
「娘なんかいねえ、って言われていましたね」
「娘?」
「そうです。俺には娘なんかいねえ、って」
「いや、それは……」
いねえっていうのは……。
俺はあいつに父親らしいことを何もしてやらなかった。今になってそう思う。
「どんな娘だったか……」
「生まれた時は?」
「かわいかった……」
「嬉しかったですか」
「そりゃあもう……嬉しかったさ……。本当は男が良かったけどよ……かわいかったんだ……」
「嬉しかったんですね。今ではどうしているでしょうね」
「分からない……」
「分からないんですね。会いたいと思いますか」
「そりゃあ、会いたいよ」
会えるものなら……。
この女が誰なのかは分からないが、何となく話してしまった。しかし本当に娘が現れたとしても、こんなに素直に話などできないかもしれない。
「娘さんから、お手紙が届いていますよ」
女が言った。娘から……。
「お父さん。私は元気にやっています。お父さんの背中を見て育った私は、どこへ行っても働き者だと褒められます。お父さん、厳しく育ててくれてありがとう」
俺……何もしてやらなかったのに……。
「お、俺……」
感極まる。言葉にならない言葉が胸を突き上げる。殴りはしたが何も教えてやらなかった娘。本当は、謝りたかった。男が欲しかったのは俺の勝手な思いだ。殴られて育ちたい娘などいないと、どこかで分かっていた。それなのに。
「あ、あいつに、俺は……」
熱い泉が湧き上がる。いくすじもの雫が目尻から頬を伝った。一度しゃくり上げたらもう何も話せない。
「娘さんに、伝えておきますよ。お父さんが、涙をこぼされていたって」
女の声も潤んでいた。この女は誰なのか。分からないけれど、嬉しかった。
俺には娘がいた。確かにいた。
※この物語は、著者の介護体験をもとに、家族介護の場面を描いたフィクションです。
あとがき
家族が家族として認識されない日が来ると、誰が想像できるでしょうか。それが現実となった日々の中でも、家族介護は続きます。
家族として正面から向き合うと、苦しくなることも多いかもしれません。そんな時、別の誰かになりきって関わることがあってはならないと、誰が言えるでしょう。
この物語の中で手紙を読んだ女性は誰でしょうか。それは、読者の方それぞれが想像したものが答えだと私は思います。
悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の真の理解を広めるため、物語の力を私は知っています。

阿部 敦子

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