「危ない」に奪われる自由~認知症と環境調整~

あなたは一生のうち、どれだけの時間を「自由」に過ごせるのでしょうか?何を不自由と感じるのかによって、各々の「自由」はその姿も大きさも変化することでしょう。そしてルールや物理的な制限によっても自由は変化していきます。

幼いころは自由が危険を生む時期とされ、管理される対象として過ごします。そこから身体も心も成長し、身体能力は向上、行動範囲が広がり、思考力・判断力も向上していきます。そして養育者の管理から次第に自由になっていきます。

成長がある程度落ち着いた後、(高齢者とは言わないまでも)加齢に伴って体力の低下や様々な理由で身体的に「自由が効かない」状態になるでしょう。それが認知症者の場合、自身の身体的理由以外に「環境因子」によって自由が削られているケースが発生しています。

認知症という語感

その昔、認知症は「痴呆症(ちほうしょう)」と呼ばれていました。「痴れ者(しれもの)」「呆け(ぼけ)」といった漢字が使用された侮蔑的な表現ということもあり、痴呆症は認知症へと名称が変わります。「痴呆症」ほど衝撃的ではなくなりましたが、良くも悪くも「使いやすい言葉」になったという人もいます(もう少ししっくりくる言葉はないかなといつも考えていますが、なかなか良い言葉が浮かんできません)。

認知症サポーター養成講座等が整備され、当事者による発信も増加、メディアでもたびたび取り上げられるようになり、認知症という言葉は社会に浸透しつつありますが、まだまだ不十分な状態です。語としての使いやすさと認識の深まりが比例しない限り、誤解を以って社会に広がりやすくなりがちです。

現在でもまだ、「認知症=危険・制限・管理」といった感覚的な対応や環境調整が存在しています。これは、社会的な認識の浅さにも原因があると言えます。もちろん、介護や医療のプロフェッショナルが集まる臨床・現場と呼ばれる場所であれば、一般的な認識がそのまま当てはまるだけでいいとは言えません。

生活の中の「危ない」

ケアに携わる我々であれば、身体的なもの以外に認知機能を要因とする「危険」について考える必要が生じてきます。以下は介護場面(施設・在宅)でよく耳にする「○○だから危ない」のパターンです。それぞれに矢印をつけていますので「危ないからこう対応しよう」という例をできるだけ短絡的に考えてみてください。
(ex:外に出たら危ない→鍵をかけて行動を制限しよう)

  • 外に出たら危ない→
  • 落ちたら危ない→
  • 食べたら危ない→
  • 飲んだら危ない→
  • 立ったら危ない→
  • 転んだら危ない→
  • 料理で包丁を使うのは危ない→
  • お風呂は溺れたら危ない→

行動制限や安全管理は何のためにするのか?ということですが、おそらく鍵をかけて外に出られないようにする等の行為は、「外に出て行方不明になったり交通事故に遭ったりしたら危ない」からだ、ということになるでしょう。しかし、ほとんどは「事故」を防止するためのものであって、危険というものを一面的にしか捉えていないのです。

「危険=事故」ではなく、「危険=なんらかのリスク」という考え方に基づいて生活を見た場合、鍵をかけることで防げる事故があると同時に他のリスクが発生します。生活者としての尊厳・自由が奪われ、身体機能や認知機能にも当然マイナスの影響が生まれるのです。

そこで優先順位は何か?という議論になります。ひと昔前ほどではないにしろ、何かが起こると、原因より「誰が責任をとるのか」ということばかりが論じられる風潮があり、本来の優先順位や本人の意思をないがしろにする要因にもなっています。

介護や医療に携わる人は、一歩間違えればとんでもない責任を負わなければならない状況に身を置いていて、その怖さがある以上「わかっていても鍵をかけざるをえない」というケースも多くなります。認知症関連ではありませんが、似たような事例を先日、数年前の教え子(保育士)から聴きました。

「某保育園では鬼ごっこ禁止、園庭で遊ぶことも禁止、はさみも積み木も禁止、許されているのは座って本を読むことと蜜蝋クレヨンでの塗り絵程度」

もちろん理由は危ないからだそうです。

哲学者のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェはこんな言葉を遺しています。

〝轢かれる危険が最も多いのは、ちょうど一台の車を避けた時である〟

危険とはなにか

危険の対義語は安全です。危険とはなにかを考える前にまず、「安全とはなにか」を考えてみたいと思います。このコラムを執筆するにあたって、さまざまな分野での「安全とは」を調べたところ、(あくまでも個人的にですが)高齢者・認知症関連にもあてはまると思えた定義は以下のものです。

許容できないリスクがないこと
引用元:国際基本安全規格ISO/IEC GUIDE 51:2014

ケアに携わる人は普段からあらゆる情報を集め、分析し、ケアにあたっています。当然「リスク」についても予測しているため、それが許容範囲かどうかを考えることで安全な状態とはなにかを導き出せるということです。つまり危険とは、「許容できないリスクがある」ことになります。何が許容できて何が許容できないかの判断だけが大切です。

予測すること

前述した「外に出ないように鍵をかける」ことも環境調整と言えるかもしれません。しかし、環境を狭めること・環境を閉じてしまうことでは一面的な危険の排除に留まり、他のリスクが増大することに繋がりかねません。そこで、環境因子である我々はどうあればいいのか?を考えてみます。

職業として認知症者に関わる場合は特にそうですが、中核症状・行動心理症状・その人のさまざまな状態・性格・生活習慣・生活歴・嗜好性などなどと総合的に勘案して関わることが大切になるのは周知の事実です。それらを踏まえて行う環境調整とは、許容できる範囲のリスクを予測したうえで、自由に過ごすという当たり前の形をつくるために行うものになります。

環境を整えるということはハード面に限った話ではなく、介護施設であれば近隣住民、近隣歩道の看板、商店の機能などなど、地域そのものが有機的に機能し、認知症者ができるかぎり外を自由に歩けるようにすることです。

「転んだらどうするんだ」と必ず言われますが、極端な話、人間転ぶときは転びます。それは生きる上で、移動する上で許容できる範囲のリスクと考えるのか、それとも「今この人は絶対に転んではいけない状態」なのかを考えて調整にあたります。介護職であれば、制限・管理・監視に重きを置いた時点で生活機能をコントロールしてしまう監督者になってしまいます。

  • できること
  • していること
  • していないけどできること
  • 支援によってできるようになること
  • 支援によってしていること

これらを日々の関わりから見極めたうえで、「だからこの環境を作ればいいんだ」という答えを常に見つけていきます。

ミクロな行動制限で目先の事故を予防するだけではなく、地域への理解や当事者・家族・専門職・事業所・行政・近隣住民・メディア・教育も含めたソフト・ハード両面からの環境調整が必要です。それが高齢者・認知症者の自由の幅を維持しながら自然に生きていけることにつながることになるでしょう。

さいごに

危険だからダメ、が一概に悪いわけではありません。初心者が崖の上でホッピングをするのは危険だからダメです。老若男女・認知症の有無に関係なく、高速道路の真ん中で昼寝をするのはダメですし、家の中で焚き火をするのも危険だからダメです。これらは誰であっても「なぜ危険か?」が理解でき、容易に結果が予測できるからです。

無茶と危険は似て非なるものです。本人の意思であえて命綱なしで高層ビルの壁面を登る人も世の中にはいますが、わざわざ対人援助者である我々が高齢者・認知症者に無茶なことを勧める必要はないでしょう。認知症になったからといって普通の生活の中で普通にしていること、していたことを続けられるように社会を調整することも今の福祉・医療の役割だと考えられます(普通にしていたことが無茶なことの場合はまたちがう機会に)。

そして支援する側についても同様です、責任論や危険という概念で援助者の行動を狭め、事故が起きなければいいというネガティブな援助に終始しないよう、本来の能力を十分に発揮できる環境調整が必要です。それが認知症の人の自由と人生に大きく影響することでしょう。

前回記事:道交法改正~高齢者ドライバーを取り巻く現状~

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軍司大輔

軍司大輔

前介護福祉士養成校学科長。介護療養型医療施設等で介護福祉士として従事した後、介護教員となり、現在は地域での介護事業に携わっている。介護職ネットワーク「ケアコネクト」代表として認知症勉強会や情報交換会を開催。国家試験実技実地委員、実務者研修・初任者研修・福祉用具専門相談員講習講師の他、介護福祉士養成校・各種試験対策講師を務める。教育と臨床の両面から地域で活動する。HR/HMギタリスト。
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