認知症介護小説『その人の世界』vol.21 心配なんです

もうあれから3日が過ぎた。
いったんここで宿を取り、翌日からヨーロッパへ骨董品の買い付けに行く予定だった。

息子と私は201号室と202号室に分かれて泊まった。社長である息子は深夜まで仕事をするのが常だったし、私は9時には就寝しないと体調が崩れる。

出発の朝、身支度を整えた私は息子の部屋をノックした。返答がないので「ねえ」と言ってもう一度ノックする。やはり返答がない。

引き戸のドアに手をかけると、鍵がかかっていなかった。「入るわよ」と声をかけ、私は部屋の中に足を踏み入れた。

「なんだい、あんた」
椅子の背もたれ越しに振り返ったのは、見たことのない男性の老人だった。着替えの最中のようで、上半身裸のまま肌着を手にしている。私は思わず「えっ」と声をもらしてから、「すみません」と慌てて部屋を出た。

間違えようもなかった。私の部屋は角部屋で、その隣が息子の部屋だった。
「これはどういうことでしょうか」
すぐに受付へ行き、従業員に詰め寄った。従業員は首をかしげて「息子さんはもともと泊まっていらっしゃらないですよ」と言った。そんなはずはないと何度繰り返しても従業員たちは「まだ泊まっていてください」と愛想良く振る舞うか、根拠なく「大丈夫ですよ」と笑うだけだった。

私は部屋という部屋をくまなく探した。隣の部屋だったというのは私の思い込みかもしれない。そんな私を、従業員たちはやんわりとたしなめた。
「他のお部屋の方のご迷惑になります。ここには息子さんはいないですから、もうやめてください」

私は思わずいきり立った。
「そんなはずはないです! ここまで一緒に来たんですから! それとも何ですか、息子が私に黙って別に発ったとでも言うんですか!」
相手の女性は「あー」と顎に手を当てた。
「そうなんじゃないですか。よく分からないですけど」

話にならなかった。どの従業員も言っていることがばらばらで、誰も信用できなかった。
3日経っても、状況は何も変わらない。これはどういうことなのか。息子は本当に私を置いて勝手に行ってしまったのか。それとも失踪してしまったのか。そうならば事件だ。

私はたまらず叫んだ。
「アツシー! どこにいるのー! いるなら出てきてちょうだーい! アツシー!」

3日も姿を見ないのだから現れるはずもないとどこかで分かっていた。私はフロアーのソファにぐったりともたれ、さめざめと泣いた。私の前を通り過ぎる人々は、客だけでなく従業員さえも冷めた瞳で私を見下ろしていった。なぜ、こんなにも人々は冷静なのか。一人の人間が失踪したかもしれないというのに。

「ちょっと、あなた」
私は前を通り過ぎようとした一人の従業員を呼び止めた。
「どうしましたか」
足を止めた相手の女性は、近寄って私の斜め前で腰を下げた。
「どうしましたか、じゃないわよ! 私の息子をどうして誰も一緒に探してくれないの」

女性は私をじっと見つめ返した。
「息子さんを探したいんですね」
「そうよ! だって私に黙って3日も姿を見せないのよ」
「3日も姿が見えないんですね……」
「そうなんです。私は心配なんです。子どものことを心配しない親なんていません」

私の言葉に女性は視線をそらさず頷いた。
「息子さんはおいくつなんですか」
「いくつって、もう大人です」
「大人なんですね」
「そうですよ。社長なんですから」

「すごいですね!」と相手は目を見開いた。
「どんな会社なんですか」
「どんなって、いろいろやってます」
「いろいろされているんですね」

女性は興味津々といった表情だった。私は腕組みをした。
「そんなことより、息子を探してください」
「息子さんは、大人でしたね」
「そうですよ。もう立派な大人です」
「でしたら……」

女性は腰を上げて私の隣に座り直した。
「何かトラブルがあれば、ご自分で解決できるでしょうね」
「そりゃまあ、そうでしょうね」
「社長さんであれば、とてもお忙しいことでしょう。いちいちお母さまに説明できないことも抱えておられるはずです」
「そんなこと、私が一番よく分かっています」
「だったら」

相手はこちらに向き直った。
「だったら、信じてみませんか。息子さんのこと」
「信じるって、どういうことよ」
「実際のところ、今回のお泊りはお母さまだけの予定で、息子さんは初めから予約されていなかったんです。どういった事情でお母さまと行き違ったのかは分からないですが、4泊5日の予定になっていますから、それまでの間には息子さんから連絡があると信じてみませんか」

4泊も……私に黙って、勝手に……。

「やっぱり私は……息子に置いて行かれたんですね……」
再び目頭が熱くなり、視界がにじんだ。さっきとは違う涙だった。
「私はどうせ見捨てられたんです。いつも息子の仕事について行くだけで何も役に立たないですし、かえって足手まといだったかもしれません。亡くなった夫の後を継いだ息子を必死で応援してきましたけど、もう必要ないんですね……」
私は両手の指先で瞼をおさえた。

「息子さんも、お母さまも、大人だということだと思います。それぞれ自立されているから、説明がいらないと思い込んでしまうことがあるんだと思います」
「だからって、3日も音信不通にすることないじゃないですか。それとも飛行機が落ちたのかもしれません」
「そのようなニュースは、今のところないです」
「あなた、そんな呑気に言ってるけど、私は心配してるんです」
「飛行機が落ちたらいいと思うんですか」
「そんなはずないでしょう! 誰がそんなこと願うんですか!」

私は拳を握った。女性が言った。
「心配するということは、それを願うことと同じです。そうなったらいいなと思い描くことと同じなんです」
「ばかな!」
「息子さんは立派な大人に成長されて、社長としてのお仕事を務めておられます。お母さまに伝えきれないことがあってもお仕事に専念できるのは、親離れされ、お母さまを信じていらっしゃるということではないでしょうか」
「じゃあ何ですか、私が子離れできていないとでも言いたいんですか!」
「もしかしたら、そうかもしれません」
「失礼な!」

荒げた声とともに腰が浮いた。女性は少しも動じることなく私と視線を合わせていた。
「何か連絡が入ったら、すぐにお知らせします。息子さんから連絡が来ると、私は信じています。もしかしたら来ないかもしれません。それでも信じます。信じるとはそういうことなんだと思います。私を信じてくださいとは言いません。息子さんのことを、一緒に信じましょう」

言葉が出なかった。言いたいことはたくさんあったはずだった。けれど私は心のどこかで分かっていた。私が何を言ったとしても、それを聴いてほしいのは息子を除いて他にいないのだと。

「淋しいですよね」
不意の言葉に胸を突かれた。そうなんです、と言いそうになって、私は口をつぐんだ。こんなに簡単に言い当てられたらたまらない。私のこの淋しさは、誰に理解できるはずもないのだから。

「もう、ほっといてください」
言葉は心と裏腹だった。私は立ち上がり、どこへ行くでもなく歩きだした。女性は私の背中を黙って見送った。本当は引き止めてほしかった。

「何かあったら、またいつでもどうぞ」
女性の声が追いかけてきた。私は振り返らなかった。

こんなに向き合ってくれたのは、この人が初めてだった。

※この物語は、著者の介護体験をもとにショートステイでの場面を描いたフィクションです。

あとがき

行動心理症状の心理症状にあたるものの中で、最も関わりが難しいと言われているのがいわゆる妄想です。今回は「見捨てられ妄想」と呼ばれるであろう状態を描きました。以前のvol.12でも妄想について書きましたが、あの物語は在宅を場面に主人公にとっての対象者(夫)がその場にいるという設定でした。ここでは対象者(息子)は登場しません。このような場合、本人は完全に孤立する傾向にあり、周囲の人々もかける言葉を失いがちです。

わたしは時に、あえて相手の世界に共感しないことがあります。共感しすぎることで相手の状態がより悪化すると予想できる場合、自分自身の強い意思で大木のようにただそこに「居る」ということが大事な場面もあるのです。相手の言動に合わせて対応を変えるのではなく、一貫した自分の考えを持ち、頼りたいと思った時にいつでも頼って頂ける存在になること。介護職員としてよりも人として支えたいと強く願った時の、自分でもちょっと意外な一面です。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の真の理解のために、物語の力をわたしは信じています。

関連記事:認知症介護小説『その人の世界』vol.12

The following two tabs change content below.
阿部 敦子

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。
介護のお仕事

Facebookコメント