認知症介護小説『その人の世界』vol.20

by 阿部 敦子阿部 敦子 5534views

今の時代だとペンションていうのかしら、こういうの。

要するにお泊りする所なのよね。お部屋におトイレがついていて、食事は決まった時間に食堂でいただくの。お風呂は共用で、順番に入る。

昔からたまに家を離れて一人で過ごすのが好きだった私は、近場でも宿を取ってのんびりするのが趣味だった。孫と同居するようになってからは特に、家族が気を遣って定期的に宿を手配してくれる。

今の私は行きつけの宿がふたつある。ひとつはまあまあ大きめで、ちょっとホテルっぽいところ。もうひとつはそれよりも小さめで家庭的な感じ。それぞれ特徴が違うから、どちらが良いとか悪いとかはない。

「いらっしゃーい」
玄関で私を出迎えてくれたのは、気さくという言葉を絵に描いたような小太りのおばちゃんだった。このおばちゃんとは付き合いが長くて、もうすっかり親友みたいになっている。今日のお泊りは家庭的な感じのほう。

「あら、今日のブラウス素敵じゃないのー」
おばちゃんの手のひらが私の肩を滑った。
「もうずいぶん昔のよ。ちょっと派手だけどいいやつだから。こんな年になって恥ずかしいけど」
「ううん、すごくよく似合ってる。ランちゃんは色白だから何を着ても似合うのよ」
「あら嬉しい。そんなこと言ってくれるのあなただけよ」

このおばちゃんは私のことを「ランちゃん」と呼ぶ。蘭子という名前が女優みたいで嫌だと言った私への心遣いだった。
「コーヒーでも飲もうよ。ランちゃんの好きな甘いの淹れるから」
「ありがとう」

私はフロアーの窓際の席に腰を下ろした。窓の外は駐車場で、もみじの木が葉を茂らせていた。これと言って特別な景色ではないが、私は実家にいる頃から窓際が好きだった。

私の実家は高級料亭だった。明治天皇が食事に来たこともあるらしい。5人兄弟のそれぞれに乳母がついていて、私は「蘭子さま」と呼ばれていた。庭園には錦鯉の泳ぐ池があり、丁寧に刈り込まれた木々が四季を告げた。乳母たちは私に庭園で遊ぶようにといつも言った。それは私が厨房に入りたがるのを知っていたからで、けれど言いつけを守る私ではないことも乳母たちはよく承知していた。

「蘭子さま、そこから先は入ってはいけませんよ」
こっそりと厨房の入口から中を覗いた幼い私を、料理人たちは穏やかにたしなめた。
「どうして入っちゃいけないの」
「ここは危ないものがたくさんあるんですよ。怪我でもしたら大変です」
「わたし、けがなんかしないもの」
「それじゃあ見ていてごらんなさい。今から包丁を研ぎます」
料理人は両手に持った長い包丁を空中で戦わせた。しゃっ、しゃっ、と音がした。
「怖いわ」
「そうでしょう。ですから近寄っちゃいけませんよ」

そう言われてはじめて庭園に出るのは私の儀式のようなものだった。今思えば、あれは包丁研ぎなんかではなかったのかもしれない。あの頃の私は庭園がつまらなくて仕方なかった。一度、見事に紅葉したもみじの木に登って枝を折った時は、こっぴどく乳母に叱られた。塀の外が見たかったのだ。乳母はもみじの枝ではなく私の心配をしてくれた。もみじの木を見ると、あの頃のことを思い出す。

「どうぞー」
私の前にコーヒーカップを置いたのは20代くらいの女の子だった。
「ありがとうございます」
私は膝の上に両手を置き、軽く頭を下げた。
「ランちゃん好みに甘くしておいたからねー」
女の子は空のお盆を胸に当てながら踵を返した。

「ちょっとすみません」
私の声に彼女はくるりと振り返った。
「なに? どうしたの?」
「あなたは……」
「ん?」
「失礼ですけど、あなたはどちら様ですか? 私とはどういうご関係?」
「どういうって……」
相手は軽く口を尖らせた。私は黙って返事を待った。

「私はここの職員だよ」
「それだけですか」
「うん。そうだね。他に説明のしようがないかも」
「では、あなたと私は、従業員と客という関係なんですね」
「ああ、そういうことになるのかぁ」
女の子はさも意外そうに笑った。

再び一人になると、私は湯気の立つコーヒーを眺めていた。確かに私は甘いコーヒーが好きで、初めからミルクも入れる。そのように淹れてくれたに違いないことはとても有難かった。それなのに、ちっとも嬉しくない。

「珍しいね、すぐに口をつけないの」
仲良しのおばちゃんが通りすがりに笑った。私はその腕に触れ、「ちょっと」と囁いた。
「これを持ってきてくれた女の子、どうしてあんなに馴れ馴れしいのかしら」
「さっきの子?」
「そう。親しくもないのにランちゃんて呼ぶし、昔からの友達みたいに話すし。彼女、いつもああなの?」
そこで初めて私はおばちゃんを見上げた。
「そうねぇ、そうかもしれないね。まだ入ったばっかりなのよ」
おばちゃんは苦々しく笑った。

「あなた、笑いごとじゃないわね。ちゃんと教育してあげないとだめよ。これからはあなたも私のことをランちゃんて呼ぶのをやめた方がいいわ。その言葉遣いもやめましょう。新人はいいも悪いも分からないことがあって、先輩がやることを悪気なく真似てしまうのよ。あなたと私の関係でしか成立しないことが自分にも許されると勘違いしてしまうの。それは私の乳母がよくそう言っていたのよ。乳母にもいろいろいて教育が大変だって」

私はもみじの木に視線をやった。
「どんな仕事場でも、全てはそこを仕切る長そのものなの。見栄っ張りな長だと玄関ばっかりきれいだし、私腹を肥やしている長だと従業員は活き活きしていないしすぐに入れ替わる。だらしない長だと時間も場所もルールも管理されていないし、客思いの長はまず従業員を大切に扱う。あなたの後輩たちは、あなたそのものよ。お掃除が行き届いているところや、細かい心配りもあなたそのもの。そのことをもっとよく自覚しないとね。こんなこと、あなただから言えるのよ。もうひとつの宿では言わない。だって、面倒な人だと思われたくないでしょう」

おばちゃんは目を伏せてしみじみと頷いた。
「本当。その通りだ。ありがとうございます」

私はコーヒーカップに手をかけた。
「言葉ってね、その人そのものなのよ。相手を大切に思う気持ちや親しみは、馴れ馴れしさとは違うの。お互いの関係性の中で適切に遣われる言葉が更なる関係性を育むんだって、乳母が言っていた。なんだか全部、乳母の受け売りね」

小さく鼻で笑った私におばちゃんが頭を下げた。
「私の乳母になってください」
「え? おっぱい出ないわよ」
「違う違う、教育係」

ふたりの笑い声が重なった。こんなふうに心を許せる人がいる場所がある。心を許してこそ、身体も委ねる。それが安心というもの。安らかに老いるということ。

※この物語は、著者の介護体験をもとにショートステイの場面を描いたフィクションです。

あとがき

相手にとって自分が何者であるか、を想像すること。人として人を敬うこと。これらの成熟を目指し続ける介護職でありたいと、わたしはいつも考えています。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。認知症の真の理解のために、物語の力をわたしは信じています。

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阿部 敦子

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。
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