朝の8時はパトロールの時間だ。
交番の仕事を定年で辞めてから、私はそれまで副会長として携わってきた町内会の会長を務めることになった。以来、一日も欠かさなかったのが朝のパトロールだ。
子どもは社会の宝、というのが私の父親の口ぐせだった。その言葉通り、父親は私だけでなく近所の子どもたちの面倒もよく見た。遊び方だけでなく社会のルールも分かりやすく教えてくれる。そこには甘さと厳しさが共存しており、またユーモアもあった。
私は父親のような快活な面を持ち合わせてはいないが、子どもは社会の宝、という言葉はずっと大切にしてきた。小学生の登下校を見守るパトロールは、父親の思いを自分なりに受け継いだとも言える。若い頃のように長距離を歩くことは難しくなり、今は定点で見守っている。
今朝はあいにくの雨だ。雨の日は傘のせいで視界が悪く、普段よりも神経を遣う。自転車に気付きにくい低学年の子どもたちに声をかけてやる必要があるのだ。
カッパを着た私はいつもの曲がり角に立った。通学路の中でもこの歩道は少し狭くなっており、雨の日は特に渋滞しやすい。
「おはようございます」
一人ひとりの子どもに言葉をかける。返事をする子もいれば、しない子もいる。それでも私は必ず全員に挨拶をする。はしゃいだように、ふてくされたように、あるいはぼんやりしたように、色とりどりの長靴が通り過ぎていく。
キッ、というブレーキ音とともに私の前でバランスを崩したのは傘をさした自転車の学生だった。曲がり角は子どもたちで詰まり始めていた。急いでいるのか学生は眉をつり上げ、苛立ちをあらわにしている。地面で弾かれた雨粒は絶え間なく学生のズボンの裾に吸い寄せられていった。
「慌てなくていいから、無理しないで行きなさい」
私は子どもたちの背中に声をかけた。雨音と車の走行音にかき消され、子どもたちには届いていないようだ。
「慌てないで……」
再び私が言いかけた時だった。
「うるせえよ!」
立ち往生していた自転車の学生が、私に向かって怒鳴りつけた。
「こっちは急いでんだよ! 余計なこと言うな!」
「いや、けれど、慌てると危ないからね。すまないね」
私は険のない言い方を意識したつもりだったが、学生は更に声を尖らせた。
「じじいは黙ってろ! お前が一番邪魔なんだよ! 雨の日ぐらい徘徊しねえで家に引っ込んでろ!」
唾のように言葉を吐き捨て、学生は車道にはみ出して子どもたちを追い越していった。朝は忙しいのだ。あの学生も安全に通学できるといいが。そう思いながらも、強さを増した雨音とともに心まで濡れていくような気持ちだった。私は通学の邪魔をしているのだろうか。
学生を見送りながら佇む私を、ひとりの女の子が見上げていた。
「おはようございます」
私が言うと、女の子が口を開いた。
「おじいちゃん、どうして傘をささないの?」
「傘をさすと、みんなの通り道が狭くなるだろう? カッパを着ているからいいんだよ」
すると女の子は「うーん」と首をかしげた。
「それ、カッパなの? びしょびしょだよ」
私は自分の胸元を見下ろした。私のカッパの上で転がるはずの雨粒は、それ以上水を吸い上げる余力のない木綿の生地と戯れている。
「あれ……」
そう呟いて私が顔を上げた時には、女の子のランドセルはすでに他の子のそれに混ざって進み始めていた。女の子は振り返って「かぜひいちゃうよ。おうちに帰ったら」と言い残していった。
そろそろパトロールも潮時かな、という思いがよぎった。そもそも地域の子どもたちは私が思う以上にしっかりしていて、見守りなど必要としていないのかもしれない。役に立つどころか迷惑や心配をかけるなら、何もしない方がましだ。私はのろのろと踵を返した。
翌日の朝は、抜けるような青空だった。私はいつものように8時に曲がり角に立った。
「おはようございます」
これもまたいつものように一人ひとりに声をかける。返事がまばらなのもいつものことだ。
子どもたちの列が一度途切れた頃、私の前で自転車がとまった。男子学生だった。体格からして高校生だろう。
「あの……」
学生は視線を泳がせた。
「あの、昨日はすみませんでした。イラッとして……」
語尾を弱めた学生は、ぺこりという音が聴こえそうに頭を下げた。その微笑ましい姿に私はがま口の財布のように口を開いて笑った。
「昨日は何かあったかな? いろんな子が通るのを見ているから、もう覚えていないよ。パトロールなんだから、事故や事件がなければそれでいいんだ」
私の言葉に学生はほっとしたような笑みを浮かべた。自転車のペダルに足をかけた彼は、こぎ出す前に言った。
「いつもありがとうございます」
自転車が走り去るのをしばし見送り、私は背すじを伸ばした。
※この物語は、著者の介護体験をもとに地域を舞台に描いたフィクションです。
あとがき
気候や場所にそぐわない服装の人を見かけたら、さり気なく声をかけてみると良いと言われています。案外、本文中の女の子のような子どもの方が、大人よりも心のバリアがないのかもしれないと書きながら思いました。
周囲の目に映る姿や行動がどんな言葉で括られたとしても、そこには必ず本人の思いがあります。その思いが地域と交われたなら、住み慣れているいないに関わらずどこにいてもありのままの姿で暮らし続けることができるのかな、なんて思います。
苦しみや悲しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症状態であってもなくても同じです。認知症の真の理解のために、物語の力をわたしは信じています。

阿部 敦子

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