認知症介護小説『その人の世界』vol.11

by 阿部 敦子阿部 敦子 4491views

誰か、助けてください。

長い夢からなかなか醒めないのです。並んだふたつの高層ビルの屋上に渡してあるのは長い平均台です。私はその上に仰向けで寝かされ、ただひたすら落ちないようにバランスを取っています。

極度の緊張は全身を硬直させます。何にすがれば良いか分からない両手は互いの腕を掴み合い、その指先は次第に皮膚に食い込んでいきます。きつく締まらずにはいられない両腕が胸を挟むと、膨らまない風船に息を吹き込んでいるような苦しみが呼吸を浅くさせました。

苦しい……苦しい……。
声なき声はビルの谷間に吸い込まれ、儚く姿を消しました。助けを呼ぼうとすると、私の口は洞窟のように更にぽっかりと開いていきます。口の中はすっかり乾き、へどろが喉に貼りつきました。

いっそ、落ちて楽になりたいと思うのです。けれど、醒めない夢の中ではそれも叶いません。

「フルリク(※)からベッドに移るから手伝って」
人の声とともに両脇に差し込まれたのは腕なのでしょうか。丸太のようにも感じられます。膝の裏にも同じ物が当たっていますが、それが何者なのかはもはや知りようもありません。

「せえのっ」
次の瞬間、丸太に持ち上げられた身体が宙に浮きました。落下を覚悟して戦慄した私の絶叫は、声になる前に喉の奥でむなしく響いて消えました。落ちればいいと思っていたはずなのに、その時が来ると恐怖のあまり全身が石になりました。

誰か、助けてください。

夢から醒めてもまた夢なのです。転覆して裏返ったボートの上で仰向けに寝かされた私は、何も変わらない姿勢でバランスを保っています。今となってはこの身体のかたちを変えることも許されません。少しでも動けばボートは揺れ、水底と手を組んで私を脅かします。

この姿勢をいつまで続けたら楽になれるのか、誰か教えてください。いえ、このまま私を殺してください。醒めない夢なら、この生き地獄を終わらせてほしいのです。

涙も出ないほどの恐怖の中で、私はひとつの思いにかられていました。私は何か、悪いことをしたのでしょうか。だからこんな苦しみを与えられているのでしょうか。これが何かの罰なら、どうぞ殺してくださって構いません。

「殺してーっ。誰か殺してーっ」

乾ききった喉から私は最後の声を絞り出しました。刹那、会いたかった娘の顔がよぎりました。

「殺してーっ」

誰か、気付いてください。お願いです。自分で絶つことすら許されないこの命を、どうかその手で終わらせてください。

「誰か殺してーっ」

その時でした。

「これじゃあ辛すぎるでしょう。もっとちゃんと寝かせてあげないと」

天の声が聴こえた後、私の身体は光に包まれました。私は天に召され、新たなぬくもりの中で生まれ変わりました。後で分かったのは、それは光でもなければあの世でもないということでした。

「ほら、こうすると全然違うでしょう。表情だってこんなに穏やかになった」

私の身体は平均台の上ではなく、そしてボートの上でもない場所にありました。ふわりと真綿に包まれたような安心感は、自分が緊張から解かれたことを教えてくれました。身体がほどけると、深く刻まれた眉間の皺が消えていくのが分かりました。

「かわいそうに。あれじゃあ辛すぎて殺してって言いたくもなりますよ。うるさいからって安定剤を飲ませる前に、たくさんできることがありますよ」

私はうっすらと目を開きました。久しぶりに見る、夢ではない世界でした。見えたのは、一人の男性でした。男性が言いました。
「殺すなんて、とんでもない。辛い思いをさせてごめんなさい。今度からは、ちゃんと寝かせてもらいましょうね」

私はまだ、生きていて良いのですか。これは罰ではなかったのですか。

男性は一歩離れると、振り返って言いました。
「娘さん。お母さんが目を開きましたよ」

上から覗き込んで私の手を握ってくれたのは、会いたかった顔でした。
「お母さん、会いに来たよ」
その声と同時に、私の視界はくもりました。「会いたかった」という言葉の代わりに涙があふれ、それは嗚咽に変わりました。

生まれた時のよく泣いたあなた。よちよち歩きのあなた。どろんこになって怒られた時のあなた。初めてのランドセル。セーラー服の揺れる裾。どれもみんな、かわいかったわよ。あなたの成長を見ていることが私の喜びでした。

「お母さん、もうすぐ桜が咲くよ。一緒に見に行こうね」
娘の言葉に私はまばたきで応えました。

私にも、春が来るのですね。

※この物語は、著者の介護体験をもとに介護施設や病院を舞台に書かれたフィクションです。

(※)フルリク…フルリクライニング式車椅子

あとがき

今回のお語は、理学療法士の大渕哲也先生に監修して頂きました。大渕先生との出逢いがわたしの現場の姿勢ケアを変え、この物語を書くきっかけとなりました。大渕先生のプロフィールや書籍を下記に詳しくご紹介しております。ひとつでも多くの現場に大渕先生の姿勢ケアの技術が広まりますよう願っています。

介護は姿勢ケアから始まると言っても過言ではありません。けれど多くの介護現場では「寝たきりになれば拘縮する」「拘縮したらクッションを当てれば良い」などと考えられていることが多いのではないでしょうか。退院してみたら手脚が折れ曲がって固まっていたというのはよく耳にする話です。実は寝たきりになったから拘縮したのではなく、不適切な姿勢ケアによる結果です。褥瘡予防のエアマットが拘縮を進ませるというのも皮肉な話です。

食事摂取不良には栄養補助食品、便秘には下剤、不穏になると安定剤、多動には抑制など、対処で終わってしまうことで根本的な解決にならず、同じ困りごとを抱えるお年寄りが減らない現状があります。「認知症だから」で済まされてしまうことも少なくありません。適切な姿勢ケアを介護者が知ることで、誰もがいつ寝たきりになっても安らかな春を迎えられることをわたしは祈っています。

大渕 哲也様【監修】大渕 哲也(おおふち・てつや)
1985年、川崎リハビリテーション学院理学療法科卒業理学療法士免許取得。岡山県環境保健部公衆衛生課勤務、老人保健行政に従事し、在宅介護の実態に触れる。
翌年、新潟に戻り医療機関勤務リハビリテーション医療従事。
介護保険制度開始とともに、介護支援専門員資格取得。特別養護老人ホームや民間サービス介護事業社に勤務。
現在は福祉用具レンタル販売会社に勤務し、一貫して施設入居や在宅の要介護高齢者の生活支援に従事している。また、日本リハビリテーション工学協会やテクノエイド協会に研修会講師等の形で協力している。
主な著書:「座位が変われば暮らしが変わる」(中央法規)
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阿部 敦子

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。
介護のお仕事

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