認知症介護小説『その人の世界』vol.10 繰り返すのは

認知症介護小説『その人の世界』vol.10

手のひらに乗るほどの小さな花瓶から、一輪の水仙が背すじを伸ばしている。

僕はそれを応接セットのテーブルから廊下へ移した。花瓶が置けそうな場所は廊下にはなかった。窓の桟にかろうじてスペースを見つけると、僕は花瓶を慎重に置いた。長いまつ毛の瞳でこちらを見つめ返す利発そうな水仙は、冬の静かな日ざしによく似合う。

「あっ、またそんな所に置いて」

大きな声で近寄ってきたのは中年の女性だった。女性が強調した「また」という言葉がひと際わざとらしく聞こえる。

「ここは物を置く場所じゃないのよ。人が通ったり、窓を開ける時にぶつかって危ないでしょう」

女性は花瓶をぞんざいな手つきで持ち上げた。
「こんな小さな花瓶に頭でっかちの水仙なんかが活けてあるんだから、ただでさえバランスが悪いじゃないの。お願いだからもうしないで」

「忙しい時に限って……」と呟きながら女性は花瓶を持ち去った。僕はその背中を追いかけると、女性が戻した花瓶を再び応接セットから廊下へ移した。

僕が教師になってから初めて異動になった学校は、生徒の生活態度が好ましくなかった。服装は乱れているし、挨拶もろくにできない。廊下の掲示物は破られ、落書きもあった。注意をしても、学級会で話し合っても、改善されるのは数日のことだった。

話をしてみれば、生徒たちはみな素直で友達思いだった。あどけなさを残しながらもませた言葉を遣う彼らに説教じみた話が無用であることは分かっている。僕は夏休みに入るのを待ってから、廊下の落書きを消した。掲示物を貼りかえ、窓を磨いた。そして始業式の前日に、廊下の各所に花を飾った。花瓶の花がしおれると学校の花壇から拝借してまた飾った。

そんなことを続けていたある日、僕はひとつの変化に気付いた。僕の知らない花が挿してあったのだ。それは一人の女子生徒が自宅から持ってきた花だった。僕と彼女が花瓶の水を取りかえていると、また別の生徒が花を持ってきてくれた。そんなふうにして廊下は少しずつ華やかになっていった。

それからほどなくして僕はまたあることに気付いた。落書きがない。掲示物は貼られた時の状態を保っている。僕が生徒たちと花瓶に花を活けていると、別の生徒たちが挨拶をして通り過ぎていった。

それが、僕が教師になって初めて物理的な環境を強く意識するようになったきっかけだった。まさかここまで効果があるとは思っていなかったのだ。きちんとしなさいと命令することはたやすいが、それだけでは生徒は変わらない。大事なのは僕自身の行動なのだ。それ以来ずっと、僕は一日も欠かさず廊下に花を飾り続けてきた。

「さてと、どうするか」
僕は花瓶を持って廊下に佇んだ。水仙は軽く目を伏せてはにかみ、新しい居場所が決まるのを待っていた。

「きれいな花ですね」
声をかけられ視線を移すと、若い男性が立っていた。

「この場所はどうですか」
男性が指をさしたのは壁に打ち付けられた釘のようなものだった。

「ここに入れてみてください」
そう言って男性が僕に見せたのは、小さな籠だった。僕がそこに花瓶を入れると、男性は壁に籠をぶら下げた。

「いいね」
僕が言うより先に水仙がそう言ったような気がした。

「廊下に飾るのも、いいものですね。ありがとうございます」
清々しい表情で男性は水仙を眺めた。廊下に花を飾るのは僕にとっては日常であったが、改めて感謝されると嬉しいものだった。
「水……かえるから」
僕が言うと、男性は「そうだ」と閃きの声をもらした。
「一か所じゃなくて、何か所かあるともっといいですね。水かえを僕も手伝うので、増やしても大丈夫ですか」
「ああ。いくつでもかえるよ。水なんか一人でやれる」
「ありがとうございます!」
男性は目に力を込めて僕を見た。そのはつらつとした表情に、僕は懐かしい教え子の姿を重ね合わせた。僕はあの頃、確かに教師だった。そして今は、何者でもない。

「ああ、一段落した」
僕たちの後ろで立ち止まったのは中年の女性だった。
「あら、かわいい。こんなふうにすれば良かったのね。気が付かなかった」
僕たちはしばし三人で水仙を眺めた。僕が言った。
「昔、水辺で自分の美しさにみとれた少年がこの花に姿を変えてしまったという神話があるんだよ。この花が水辺に咲くのは、毒が強いからなんだ。毒が強いと、子孫を増やすのに動物の力を借りることができないだろう。だから種子を水に浮かせたのさ」

すると二人が「へえーっ」と声を揃えた。
「さすが、生物の先生ね! これからは先生って呼ぶわ」
女性の感嘆した様子に男性も笑顔で頷いた。僕は深呼吸をひとつして軽く胸を張った。

「何でも訊きなさい。僕に分かることならね」

僕はあの頃、確かに教師だった。そして今も。

※この物語は、著者の介護体験をもとに介護施設を舞台に書かれたフィクションです。

あとがき

長い人生の中で築いてきたステイタスは、誰にとっても自分を語る上で重要な意味を持ちますね。繰り返される言動ほど、大切なものに裏打ちされていることが多いように思います。それらを問題と捉えるか、豊かな生活への鍵と捉えるかは介護者の視点ひとつです。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。真の理解を得るために、物語の力をわたしは信じています。

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阿部 敦子

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。

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