「八朗さん、風呂に入りましょう」
短パンからにょっきりと脚を出した兄ちゃんが俺に話しかけてきた。俺の名前を呼んだが、見たことのあるようなないような兄ちゃんだった。
「なして俺があんたと風呂だ。入らねえよ」
俺は腕組みをして首を横に振った。俺は今日、公民館の奥にある小さな温泉に来ていた。この温泉のいいところは、親切な姉ちゃんが身体を丁寧に流してくれることだった。俺の娘は遠くへ嫁に行ったが、ここに来るとその淋しさも紛れた。
「八朗さん、ほら、今日は組合長が議員さんを連れてくる日です。議員さんに会う前に、僕と一緒に汗を流しに行きましょう」
兄ちゃんはそう言って俺の横に腰を下ろした。
「だから何だ。俺は行かねえよ」
俺はそっぽを向いて見せた。
「ですから、このあと議員さんが……」
「議員がどうした。俺にはどうでもいいことだ」
「でも、このあと女湯になってしまうし……」
「うるせえなっ。そんなに気になるならさっさと行けばいいべ」
「いや、僕は八朗さんと……」
「行かねえっつうの。いいからもう、あっちへ行け」
俺は兄ちゃんに完全に背中を向けた。
「分かりました……」
兄ちゃんは立ち上がり、おかしいなぁ、と言いながら姿を消した。組合の仲間でもあるめえし、ただの野郎と入って何が楽しいんだ。気持ちわりい。
俺は窓から空を見上げた。突き抜けるような青空だった。娘が嫁に行った日もこんな空だった。今頃、元気にやっているといい。
「八朗さん」
中年の声に振り返ると、その主は見慣れないおばちゃんだった。
「お風呂に行きましょうか」
「あれ、いつもの姉ちゃんはどうした」
「いつもの姉ちゃん? 誰かしら。今日は私が温泉係なんですよ」
いつもの姉ちゃんがいない。俺は、おみくじで小吉を引いたような気持ちになった。
「俺、今日は帰る」
立ち上がろうとした俺におばちゃんが言った。
「じゃあ、せっかくだからマッサージだけさせて頂きますよ」
おばちゃんは俺の後ろに立つと、両肩に手を置いて撫で始めた。揉むわけでもなく、押すわけでもなく、ただ優しく撫でるだけだった。その柔らかな手は肩から腕に下り、ゆっくり、ゆっくりと撫でるのだった。自然と俺の瞼は落ちた。不思議なもので、撫で方ひとつでおばちゃんの温かい人柄が伝わってくるようだった。
「はい、終わりました。お粗末さまでした」
おばちゃんが肩から手を離すと、俺は自分の身体が浮くかと思うほどの軽さをおぼえた。
「あんた……」
「はい?」
俺は振り返っておばちゃんの顔を改めて見た。
「あんた、いい人だな」
「ああ、ありがとうございます」
俺の言葉におばちゃんは少し驚いたようだった。おばちゃんが言った。
「やっぱりどうです? せっかく来た温泉」
「うん。行く。今日は大吉だ」
「そうですか」
おばちゃんが目尻を下げて笑顔を見せ、俺は立ち上がった。同時に俺たちは並んで通路を歩き出した。俺が言った。
「俺の身体を流してくれるか?」
おばちゃんは少し考え、そして言った。
「いいですよ」
「あそこ以外はか?」
おばちゃんの笑い声が通路に響いた。
※この物語は著者の介護体験を元に、介護施設を舞台に書かれたフィクションです。
あとがき
このショートストーリーはvol.2の続編となっています。同じ場所であっても、主人公が変わると設定も変わりますね。
悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。真の理解を得るために、物語の力をわたしは信じています。

阿部 敦子

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