認知症介護小説『その人の世界』vol.1

その人の世界

だから嫌だって言ったのに。

家族に勧められてしぶしぶ参加した地域交流会は、思った通り最悪だった。知っている人はいないし、歌いたくもないカラオケを無理に勧められる。まるで年寄り扱いするような体操や、子どもじみた計算ドリルもやらされる。

「それでは皆さん、おやつにしましょうか」

若い女性数名が仕切っていた魚釣りゲームが終わったようだ。集団の輪が崩れると、高齢者たちは各々の席に散らばっていった。この交流会は高齢者がとにかく多かった。それにしては会の内容が子供じみており、さっきの’おやつ’という言葉も私には引っかかる。逆に運営側は若者ばかりで、参加者に対してやたらと指示的なのが気になった。
こんな会ならさっさと帰って、注文を引き受けた洋裁に取り掛かりたかった。私は専門学校で服飾を学び、卒業後は洋裁で生計を立ててきた。結婚してからも、家事と両立しながら仕事は手放さなかった。昔と比べれば数は減ったものの、今でも注文がなくなることはない。

「はいどうぞ、おやつですよ」
運営側の若い女性が私の前にまんじゅうと緑茶を置いた。

「あの、すみません」
私の言葉に女性は振り返ると、笑顔のまま私と視線を合わせた。

「どうしましたか」

「あの、私、もう帰らせてもらってもいいでしょうか。やりたいことがあるんです」
癖なのか、私の言葉に女性は右の口角をひくっと引きつらせた。

「夕方には車で送りますからね。まだここにいてください」

「夕方までいないといけないんですか。歩いて帰るから、ご迷惑はかけません」

「いえ、それは困るんです。もうちょっと待っててください。今はおやつの時間ですから」
そう言って、女性は高齢者たちにまんじゅうと緑茶を配りながら遠ざかっていった。

「ふぅ……」
思わずため息が出る。おやつの時間とは誰が決めたのか。私には関係のないことだ。どうやら、いちいち断りを入れていると帰れそうにない。私は手さげ袋を持って立ち上がると、玄関へ向かった。玄関は自動ドアだったが、前に立っても開くことはなかった。なるほど。どのみち出られないようになっているのか。

「どうしました」
振り返ると、私に声をかけたのは運営側の若い男性だった。あてになる人間とも思えなかったが、私はさっきと同じことを言ってみた。

「私、もう帰らせてもらってもいいでしょうか」
「帰っちゃうんですか」
「はい。帰ってやりたいことがあるので」
「でも、車が出るのは夕方ですよ」

ああ、やはり。この男性もさっきの女性と同じことを言う。察していただけに、私は苦笑せずにはいられなかった。

「帰りたいなんて、困ったなぁ。もう少しいてほしいのに」
そう言って相手が両手で頭を掻いた時、私の視線は一点に釘付けになった。

「ちょっと、あなた」
「はい……」

私は相手の脇に手を伸ばした。ポロシャツの脇が 5 センチほど裂けてほつれていたのだ。

「裂けているじゃないの」
相手は自分の脇をぎこちなく見下ろすと、あっ、と声をもらした。

「本当だ。気が付かなかった」
「ちょっと脱いでごらんなさいよ。すぐに直してあげるから」
私は手さげ袋から裁縫セットを取り出した。裁縫セットは常に持ち歩くのが私の習慣だった。

「いいんですか」
弾む声で言った相手がポロシャツを脱いだ。私はそれを受け取ると、玄関の応接セットに腰を下ろした。ポロシャツの色に合いそうな糸を選び、針に通す。

「すごいですね」
大げさに相手が感心した。針に糸を通すだけですごいと言われたのは初めてだった。縫い合わせて玉どめをする頃、一度姿を消した男性が何かを手にして戻って来た。

「わぁ、ありがとうございます。僕、裁縫は苦手なんです。助かりました。ついでで申し訳ないんですけど、これもお願いできませんか」
見るとそれは、10 センチ四方に切られた布の束だった。

「これは……」
手に取って見ると、布の柄がそれぞれ違っていた。男性は私の隣に腰を下ろすと、秘密の相談を持ち掛けるように囁いた。

「僕、これを来週までにやるように言われているんです。パッチワークっていうらしいんですけど、これを縫い合わせてテーブルクロスを作れって言われていて。でも僕、裁縫が苦手で本当に困っちゃって」
叱られた子どものように視線を落とした男性を見ながら、私の中には同情心が芽生えていた。

「これぐらい、すぐできるわよ」
「本当ですかっ」

私の言葉に男性は背すじを伸ばすと、ひとつくしゃみをした。男性は上半身が裸のままだった。

「早くこれを着ちゃいなさい」

男性にポロシャツを手渡すと、私は糸を長く取って針に通した。一度縫い始めると時間の経過を忘れてしまうのが常だった。男性に声をかけられて顔を上げた時には、外は夕焼けに染まっていた。完成はしなかったものの、テーブルクロスと呼べるまでにあと少しの大きさとなっていた。車に乗り込みながら、私は後ろ髪を引かれていた。

「ありがとうございました。本当に助かりました」
男性が深々と頭を下げた。

「また来るわね」
私が車窓から手を振ると、同時に車は建物を後にした。

※この物語は、著者の介護体験を元にデイサービスを舞台として書かれたフィクションです。

あとがき

今や、認知症の情報はテレビや本、インターネットなどで溢れ、認知症の知識はある程度広まっているように感じます。けれど理解となると、まだ首をかしげてしまうのが現状です。そこで必要だと感じたのは、知識をエピソードに変換することでした。感情を伴う物語の力によって、真の理解につなげたいと考えたのです。

このショートストーリーは、アルツハイマー病の女性が主人公です。本人から見た世界では、むしろわたしたちの方が理解できない存在なのです。そのことに気付くと、行動心理症状を引き起こすのは本人ではなく環境であると分かるのではないかと思います。

今回わたしは、アルツハイマー病を題材にした小説を書きました。悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは、誰もがその人らしさとして持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。
真の理解を得るために、物語の力をわたしは信じています。

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阿部 敦子

阿部 敦子

所持資格:介護福祉士、認知症ケア専門士、介護支援専門員。神奈川県相模原市出身、同市在住。高校卒業後、経理事務を経て医療事務に。保険請求業務よりも窓口で高齢者と関わることに楽しみを見出す。父親の死により介護を強く意識し、特別養護老人ホーム、訪問介護事業所、13年間の認知症対応型通所介護事業所を経て、現在も介護の仕事に携わる。平成25年に相模原市認知症介護指導者となる。認知症に対する理解を広めたいと強く思うようになり、認知症を題材とした小説を書き始める。
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